千葉県中小企業レスキュー社長のトリセツ~8年目の希望と絶望と真実だけを心に
昨日は甥っ子の1歳の誕生日パーティーを自宅で盛大にやった。身長76センチ、体重12キロとかなりのビッグサイズだが元気にイケメンに育ってくれた。
まだまだ言葉は発せないが来年には俺の事をお兄と呼びつけにしてくれるだろう。来年も楽しみです。
3月は我が家にとって色々とイベントがあり、一つは親戚の私と同い年の男の命日、甥っ子の誕生日、母親の命日と。ソワソワして3月というものは落ち着かない。
日本人として忘れてはならない東日本大震災。8年前、私も都内の電車の中で地震に遭遇した。成田方面の法務局へ向かう途中で新小岩駅あたりで快速電車がすーーっと緊急停止した。
今のように高機能の便利なスマホがなかった時代、たしかLINEもなかったですよね。二時間ほど社内に閉じ込められて線路に降りたのが16:00あたり。
てくてく歩いて線路から道路に降りて、ひたすら自宅の千葉へ向かった。その日の予定はキャンセルで、無事に家にたどり着くことだけが目標となった夜。
電車のありがたみを痛感したのもこの日だった。大通りは大渋滞でタクシーの料金メーターが4万とか5万とか。ファミレスで一夜を明かそうとサラリーマン連中がごった返してたのは滑稽だった。
一番賢い人たちだったかもしれない。
公衆電話に群がる人々、自転車屋にも長蛇の列、携帯をしきりに気にする学生、あんな夜はもう二度と経験したくないですね。
幸いにも親族とは早めに連絡が取れて、私はひたすら千葉市に向かって歩いた。すれ違う見知らぬ人々20人くらいに道を尋ねられた。都内に出るにはこの道でいいのか?
どこぞやの役所に行くにはこの道でいいのか?など。
新小岩から千葉の自宅まで歩いてしまった経験から言わせてもらうと、電車が動かなくなったら、人間も動かない方がいいということ。
プラスして道を知らないところを感だけであるくのは体力の消耗が激しく危険であること。
自宅から一つ手前の駅まで父親に車で迎えに来てもらった。電車もオールストップで、駅に空の状態で迎えに来るタクシーもいない。皆、コンビニ前で悲痛な顔を浮かべていたあの夜。
自宅についてテレビで津波から逃げ惑う人々の姿に思わず目を伏せた。これが日本かと。
今年もこの3.11を迎える。民放各局のテレビ番組欄に3.11絡みの番組は殆どない。津波の映像をなるべく出さないための配慮なのかもしれないが、逆でしょう?どう考えたって。
風の電話で泣きながら亡き奥様へお話しする旦那さんのシーンが非常に印象的でした。
一生懸命に生きて、生き抜いて、人生を全うして天国の奥様に会いにいくのだと。
私もそう生き抜こうと毎年この3.11に思い願うのです。
偽物だらけのこの日本において、唯一自分を見つめなおせる日に今後もしていきたいと考えます。
レモネードコンサルテイング 野呂一哉